記号化される名前、宗教化される名前

音楽という宗教がある。それを発信する人物は神様仏様教祖様であり、その楽曲はお経や聖書のようなもの。日本には「浜崎あゆみ」という名前の宗教があり、「Mr.Children」という名前の宗教がある。「EXILE」という宗教があり、「AKB48」という宗教もある。それぞれに分かりやすく偶像化されており、その棲み分けは実に良く出来ている。

さて「くるり」の場合はどうか。くるりはというと、その偶像化されなさこそが象徴であるというか。楽曲も幅広く、メンバー構成も人数も変化し続けている。バンド自体というよりかはむしろ楽曲自体に人格を持たせているようで、様々なキャラクターを持った楽曲達がそれぞれに違った役割を担っている。流す曲、聞き込む曲、叫ぶ曲、口ずさむ曲、歌い込む曲、踊る曲…といった具合にだ。だからくるりという団体自体には「こんな感じ」というイメージを持たれにくいだろうし、人によってその捉え方が様々であったりする。お陰で「さあ次は一体何がくるのか」と飽きないでいられたりもするのだが、逆に言えば裏切られ続ける事を受け入れられなければ、くるりを好きで居続ける事は難しい。変化そのものがくるりの記号と言えるかもしれない。

音楽に限らず、もし社会に名を上げたくば記号化が必要となってくる。これは明白で、有名な作家、画家、キャラクター、その名前には必ず分かりやすいイメージがついている。例えば「ハローキティ」という記号。「ハローキティ」は実に可愛らしい存在であるが、それ故に感情を持ってはいけないという悲しい宿命がある。「ハローキティ」は常に庶民のイメージするハローキティでなくてはならず、演技であろうが芝居であろうが何年も同じ表情や姿勢を提供し続けなくてはならない。

名前自体にイメージがつくという事は、大きな強みを持つ反面、同時に弱点も持つという事である。そういった事から、自己の記号化というものが凡人にはなかなか受け入れがたい。「自分は周囲が思っているような人間ではない」「自分自身がどういう存在であるべきか方向性が定まらない」とこう思考するのが凡人だ。そもそも人間は長所よりも短所に目がいくように出来ており、その記号の持つ強みを前面に打ち出すよりかは、弱点を覆い隠したり欠点を補ったりすることにより自己を確立しようとする。自己を確立したいがために、しばしば他の記号の短所をスッ叩くといった愚行に出る。残念ながら、そのような手法に捕われているようでは一向に名前を上げる事はできない。一つの記号を「これが素敵なのよ」と真っ直ぐに差し出す事で初めて支持者が生まれ、その名は宗教化するのである。

私は「梅干甘太郎」という名前を掲げながら、その記号化を拒み続けているのかもしれない。それこそが私の凡人たる最大の所以。あれやこれやと実験のように絵を描き、実験のように言葉を紡ぎ、そうやって枝葉を伸ばしては切り落としてしまう。そもそも女性であるのに「太郎」のつく男名前を名乗っているだとか、「梅干」姓なのに名には「甘」を持って来たりだとか、そういう天の邪鬼な性質を持った名前。ひっそりと微笑みかけたと思ったら気難しく語りかけられ、近づいたと思ったら突き放される。もう「どっちなんだよ」と。だがそれでいい。名を上げる事自体は目的になり得ないし、この両性的な「梅干甘太郎」という名前は何より、自分の創作活動の性質に合っているような気がする。

漢字やひらがなカタカナ、英字数字に限りがあるように、記号化にも限度があり、今やその記号は出尽くしてしまったと言っても過言ではない。専門学校の先生に「自分で思い付いたネタが世に既出である場合はどうすべきか」と質問した事がある。先生の答えはこうであった。「ネタ自体が既出であっても、あくまでその表現・主張は個人のものであり、それさえブレなければ良い」。つまり既出でろうが初出であろうが同じ「X」という記号をそのままなぞるのではなく、その人なりの「X」を描く事が求められているという事である。完全無欠のXは存在しない。一つの記号は、常に完全ではない。

全く異なる宗教を受け入れる事は容易ではないが、なるほどすでに多様化し尽くした宗教。その全ては不完全であるという理解があれば、他の宗教の存在を受け入れる事が出来るのではないだろうか。

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